蜷川実花さんの写真に感じる美しさ

今日は蜷川実花さんの写真を眺めて感動したので、その美しさについてちょっと書いてみます。

読み手のことをあまり意識せず、私の考える理屈を延々と並べ立ててみたいと思います。

それでは早速。

美のイデア

美の本質とは何かというテーマでよく出てくる理屈は、あらゆる事物にはただ一つの「本質」があるというもの。例えば人が何かを「美しい」と感じそれを他人と共有できるのは、万人に共通の「美の本質」がまずあってそこから派生する形で現実の美しい事物が存在するからだというもの。これはプラトンが考えたことでそこでいう「本質」のことを「イデア」と呼び、「美のイデア」などと言ったりする。

イデアは面白い概念だがちょっと極端すぎる。現実の世の中には「タデ食う虫も好きずき」、つまり「人それぞれ」ってことがそれなりにある。また仮にその「人それぞれ」な部分を無視して「万人の間で共有可能な美」を考えるにしても「女の美しさ」と「花の美しさ」の間にある差異は万人が感じることだろう。

ちなみに小林秀雄はさらに「花の美しさというのはない、美しい花があるだけだ」と、「花の美しさ」さえも否定してしまったそうだが(すげぇ...それって例えば恋人に花束を贈るとして、そこでの「象徴的な意味」と「野原できれいに咲いてるタンポポを摘んでプレゼントするような感性」とを分けて考えるってことだろうか)、私にはそこまで言い切る感性はないもののさすがに「イデア」はちょっと極端だ。

極論というのは論理の骨格を作ったりあれこれ試論したり(ここでは批判対象として使ってますし)と、哲学するうえでの便利な道具なのでプラトンをdisってるわけではないので念のため。

美の自然性

プラトンのいうような美とは全く逆に、蜷川さんの写真を見てすごく感じるのは、被写体がものすごく「リアルで自然」だってこと。撮影のためにあからさまに舞台演出的なことを施してる写真でさえ、いやそういう写真はよりいっそう、「リアルで自然」だ。まるで「自然は間違っている。本当の自然とは、こうであるはずだ。」と言わんばかりだ。

これはシュールレアリスムとは違う。ダリの絵のような「リアルを突き詰めた結果としてリアルを超えてしまう感じ」とは異なる。また同じ写真という表現手段でもシュールレアリスムを表現しようとした写真は、必ず作為性が残ってしまう。そういう意味では自然さを捨ててリアルを突き詰めたのがシュールレアリスムといえるかもしれない。

人工的な演出が自然さを増す、という一見したところの矛盾はいったいどういうことなのだろう。

美に秘められた「未来への志向性

そこで思い出すのは、審美眼というのは先天的なものと後天的なもののミックスだということ。プラトンイデアはきっと先天的な審美眼を象徴しているのだろう。そして審美眼の後天性がかなり大きいことは、生まれ育ったコミュニティや文化によって「美の基準」が大きく異なることがよく例としてあげられるなど、よく知られた事実だ。例えば、江戸時代に「うりざね顔」が美人のステレオタイプとされていたが現代は「うりざね顔」はそれほどもてはやされない、とか。

古代の壁画には「子供が書いたようなヘタな絵」が並んでいて「こんなへぼい絵が世界遺産かよ」みたいに思うことがよくあるが、そこに描かれた家畜や人々の行列は現代では当たり前の「富と社会秩序」を当時の姿で抽象表現したものなのだろう。いいかえれば、何千年も前の壁画に描かれるくらい、「富と社会秩序」は人類にとって「美しい」ものだからこそ、それに向かって時代が進み、現代の我々はそれらの多くを手にすることができているのだ。

つまり、「美」は未来への志向性を含むのだ。もっと言い切るなら、「美」は「人が生きる目的」なのだ。もちろん「美」だけでは生きていけない。リアルには様々なグロテスクなことがある。そのグロテスクさを突き詰めるとシュールレアリスムという「美術」にはなるが、人間がもつ未来への志向性こそが「美」の本質なのだろう。現代の我々が古代の壁画を見て美しいと感じないのは、その絵の美しさが志向していたものを既に我々は手に入れてしまっているからなのだ。

ならば我々が向かうべき先は、我々の審美眼が教えてくれるはずだ。アーティストはその作品によって、我々が本来持っている審美眼という能力を引き出す。その作品を鑑賞し、各々が自身の審美眼によって美しさを感じ、それによって人生の目的を意識的に理解できるようになる。そしてそういった一人一人の意識が集まって世界が進んでいく。

人間にとってアートとはそういうものだ、という強烈なメッセージを蜷川さんの写真から感じた。人工的な演出がかえって自然さを増すのは、そういったアートについての思想を表現しているように感じた。プラトンイデアとはだいぶ違うけど、美の本質としてこの思想はかなり的を突いているんじゃないだろうか。

我々が向かう先の未来

蜷川さんの写真は、とてもカラフルだ。ハイコントラストだし、色相の遠いもの同士がとなりあって共存している。なるほど、現代の我々はふだんとてもモノクロームな世界に住んでいるけど、これからはもっと多様な価値観が必要なんだ。それも多様な価値観が混ざり合って色がボケたり、同じ価値観のコミュニティが肥大化して境界線で争いを起こしたりするのではなく、自身の価値観を突き詰めた者どうしが隣り合って共存していくような世界を創るべきなんだ。それってとても素敵な未来だ。

蜷川さんの写真のモデルの女性には、人工物と溶け合ったエロティックさがある。それも、モデルの女性によって、衣装や周囲や背景にまとう人工物がみんな違う。なるほど、これからの都市環境は女性のファッションの一部になるべきなんだ。現代のようなアスファルトとビルが縦横無尽に張り巡らされた町並みで女性のファッションが画一化されるのは、考えてみれば当然だったんだ。未来の都市環境は女性が着る服の様になるべきなんだ。それも、そこで生活する女性にあわせて環境を作るのではなく、作られたいくつもの環境のなかから、女性が自分のファッションとして似合うところを選ぶような時代を目指すべきなんだ。それってとても素敵な未来だ。

蜷川さんの写真は、小さな生き物の目線が豊富だ。「この昆虫、可愛いな」と感じさせてくれる写真に出会ったことがこれまであっただろうか。水槽の中に入った魚がまるで「おとなりさん」のように親近感を感じさせてくれる写真が今まであっただろうか。なるほど、エコだとか絶滅危惧種を救うだとか、なんだか我々が「正義のための我慢」を強いられるような空気が良しとされている現代だが、それよりももっと「おとなりさん」とフレンドリーな気持ちを持つことのほうが価値があるんだ。政策を決める一部のエリートとそれに従う民衆の間で利害調整をしていたら究極的には革命の繰り返しでしか世界は変わらない。生き物としての「隣人を愛する」ことが可能ならそれが一番大きくスケールするエコだ。そんなの当たり前すぎるくらい当たり前のことだが、もちろんそれが出来たらとても素敵な未来だ。

蜷川さんの写真は、光と天然の風景がなんだか幻想的で、とても不思議だ。これについては、そのように感じることが何を示唆するのかあまり思いつかないが、例えばまったくの天然素材だけであれだけ引き込まれるものすごいファンタジーが作れるのなら、我々は幻想に引きずり込まれることを恐れる必要なんて全くない、ということなのかもしれない。それがたとえインターネットのコンテンツやアニメなどのバーチャルなものであっても。

まだまだいろんなことを感じられるかもしれない。時間を見つけてまた鑑賞したい。

というわけで

今日は蜷川実花さんの美しい写真について語ってみました。つまり一言でいうと、蜷川さんの写真をみんな見ようぜ、ということです。芸術万歳。

ではまた明日。