セザンヌ展の感想

久々の更新。アートに関するエントリが続くが興味ありましたらどうぞ。

六本木/乃木坂にある国立新美術館で「セザンヌ展」が開催されています。先日僕も行って来たのでその感想です。

モネとセザンヌは同年代

ちょっと横道から入るが、僕はクロード・モネが大好きで、大きな印象派絵画展があるときだけは美術館に行く。モネは1840年生まれで、セザンヌも1839年生まれと、モネとセザンヌは同年代に活躍したフランスの画家なので、印象派セザンヌとそれ以降の絵を見るときは1840年を起点として「その時モネやセザンヌが何歳だったか」を想像しながら鑑賞するのがオススメ。

セザンヌはふつう印象派には分類されないものの印象派技法をふんだんに取り入れた作品も結構見られる。

セザンヌの絵のどこが凄いのか

印象派絵画は、僕でも見てすぐに良さが分かるのだが、セザンヌに関しては僕は最初あまり好きではなかった。今でもセザンヌの絵を部屋に飾りたいとはあまり思わない。飾るなら断然モネやルノワールだ。でもセザンヌの絵の面白さはインテリアとしての絵画というよりも、「その絵の凄さが論理的に分析できる」という点にある。

つまりセザンヌの絵の面白さは、哲学の面白さと同じなのだ。細かく言うと、セザンヌを絵を見るときは人間の認知に関わる理論的考察とリンクして鑑賞するのが面白いのだ。以下、画集や美術書には大抵書いてあるセザンヌ入門的な話ではあるけれど、私なりの説明をしてみる。

視覚の焦点とアングル、及びキュビズム

セザンヌの絵は人間の「視覚」についての考察とリンクしている。

例えばセザンヌの静物画の最高傑作とされているこの絵は、画面内にある全ての物体が「一番良い角度からみた物体像」で描かれている。

人間の目には焦点があって「サッカード」と呼ばれる眼球の動きによって物体の境界線や模様のパターンなどをコンマ数秒のオーダーで認識している、という生物学的な視覚の話は有名だ。焦点を外れたところにあるものはぼやっとしか見えず、人間は視界の全てに注意を向けることは原理的に出来ない。したがって、何か物体を見るときは(すなわち物体に焦点をあわせるときは)、その物体に何らかの関心や必要性を感じたときである。

例えば、壺に関心や必要を感じるのはどんなときだろう。壺というのは「インテリア」であり水を入れる「びん」である。よって人間の視覚が壺を捉えるときというのは、たいていは「装飾の部分」と「水を入れる口」のいずれかに焦点を合わせているはずだ。だから、壺をイメージするとき、その2つの部分がとくに強調して想起されるはずである。

仮に同じ「壺を撮影した写真」を鑑賞したとすると、写真を撮った時のカメラマンの視点/アングルが固定されてしまっているため、壺を見る際に重要な「模様」と「水の入れ口」に注意を向けてその部位のよりリアルな姿を捉えることは、いったん写真というメディアになってしまったあとでは不可能だ。ここに「写真よりもよりリアルな絵画」の可能性を求めることが出来る。つまり人間の視覚が画像を捉えた後の、知覚の深いところにあるイメージをえぐりだすようにセザンヌの絵は描かれている。だから、セザンヌの絵は一見おとなしそうに見えて、一度見るとなかなか記憶から離れないインパクトがある。

ちなみに写真が発明され、一般の人向けに商品として普及したのは1800年代の中盤〜終盤にかけてであり、モネやセザンヌの活躍した時代と並行している。きっと写真というものもモネやセザンヌの絵画意識に少なからず影響を与えているのだろうが、この点についての専門的な知見は僕は持っていないので興味があるなら美術書を当たる必要がある。

壺一つとってもそうだが、上の絵はリンゴやテーブルクロス、机の角やエッジに至るまで、全てがそういう「人間が最もそれを認識している姿」を組み合わせて描かれている。しかも絵全体として破綻していない。破綻しないのはなぜかというと、一個の人間が様々な物体を様々なTPOにおいて好き勝手のアングルで「見て」いるにも関わらず、視覚を大きく混乱させずに生活できているという人間の元々の認識統合能力が凄いからなのだ。

(この観点で、ピカソキュビズムでやったことを後で書く)

CGとの関係/テクスチャー

もう一つ、セザンヌの絵で革命的なことがある。それは「テクスチャー」というものだ。現代の僕らは、CG(コンピュータグラフィクス)の画像映像に慣れきってしまっているため、よりいっそうセザンヌの絵に新鮮さを感じにくくなっているのかもしれないが、セザンヌの絵は構造物の形やパターンとその表面の質感などが画家の中でいったん分解された上で再構成されて描かれたような印象を受けるものがある。
例えば、この絵。奥にそびえ立つ山はサント・ヴィクトワールという山で、セザンヌはこのアングルからの風景を何度も何度も描いた。なぜか?この景色の面白さは、山=三角形、平野=四辺形、木々=縦横の線、家並み=人工物のリズム、それに川と橋もある、という素材にある。言ってみればこの点でセザンヌは「プラレールとかジオラマとか鉄道ゲージとかそういうのと同じマニアックな趣味を世界レベルで追求してしまった画家」だと言える。

構造物を幾何学的なプリミティブとして捉える発想は、CGの時代にはもう誰もがしっている。ポリゴンという言葉を知らない人が若い人にどれだけいるだろうか? しかしこのセザンヌが絵を書いていた時代、そういう発想をしている人は非常に少なかったに違いない。しかも毎日絵を書いて暮らせるだけの画才と経済力があって、その発想を実践しているという人物がセザンヌをおいて他にいただろうか…?セザンヌの絵を見るときのポイントの一つとして、この幾何学プリミティブとその構成、パターン、テクスチャという考え方はとても大切なのだ。

物事の「真の姿」とは何か?

ちょっとまた横道にそれるが、「数学」が人類共通の学問であることは直感的に誰もが理解している。数学の世界では、現実に現れる物事の個別具体的な差異やノイズを捨象して、「数」や「図形」といった観念上の世界での厳密な議論が展開されている。しかし、私がもっとも不思議に思うのは、「1」や「2」という数を生活の中で我々が使えるという能力そのものである。つまり、「数」という観念と「現実の生活」を我々は普段あまり意識せずともリンクさせることができている。

このことについて少し話を広げると、「1」という数は我々にとても馴染みが深い数である。「1よりも6732570319の方が馴染みが深い」という人はあまりいないだろう。また「2」という数もかなり馴染みが深い数である。また、「円」という図形もかなり馴染み深いし、「四角形」や「線」も馴染みが深い。しかし、しかしだ、そんなに馴染みの深い「1」や「2」なのに、「1」や「2」を単独で我々は見たことも触ったこともないのだ。「1」や「2」は常に具体的事物と共にある観念だ。したがって、「1」と「2」の間には何らかの「お決まりの、よくある関係」があるし(例えば1位の次は2位、金メダルと銀メダルの関係とか)、それ以外の数同士でも「馴染み深い関係」というのがきっとある。つまり、「1」は「1」だけで馴染み深いのではなく、「2」や他の数と伴って「おなじみさん」なのだ。

すると、「円」や「四角形」や「線」といった「幾何学的なプリミティブ」についても同様のことが言えるのではないか?「数」の観念と違って、図形については話し言葉の中でそれを正確に表現する必要に迫られることはない。(「数」が我々の言葉によるコミュニケーションにおいてより切実なのは、人間同士の感情や利害関係の調整においてそれが不可欠な観念だからだろう。)しかし、「数」についての上述のような「馴染みのパターン」があるならば、我々は「幾何学的なプリミティブ」同士のパターンについても無意識にせよ何らかのものを捉えているのではないだろうか?

セザンヌはこの問題に挑戦したと僕は思う。
例えば、この絵。手前右下から奥に伸びる坂道のへりなんて、もうほとんど「円弧」だ(笑)。左に見える家も、坂道のほとりに建てられた不安定さをリアルに表現できるギリギリのところで四角さを保っている。
また全体の構図も、四角、台形、円弧、縦横の線、ナナメの線、と殆どが基本的な図形の組み合わせでできている、にも関わらず「これが風景画であることに同意しかねる!」とイチャモンつける人はあまりいないだろう。そのくらいこの絵はセザンヌの方法のオンパレードだ。

他にも、家並がまるで現代の工場の生産ラインのように整然とリズムを打っているように見えるにもかかわらず自然な風景を描いてしまっているような絵とか、この方法論において衝撃的な作品がいっぱいある。

という感じで

もう少し、語れそうなこともあるのですが、今日はここまで。続編は気が向いたら書くかもしれません。つまり、まとめると、みんな「セザンヌ展」観に行こうぜってことです。芸術万歳!

ではまた明日。