アメリカン・ポップ・アート展に行ってきた(前編)

行ってきました、アメリカン・ポップ・アート展

僕は美術鑑賞が趣味いえるほどではないけど、心がミーハーなので「すんごいメジャーどころの作品展」のときだけは見に行くようにしてます。僕にとって美術鑑賞はテレビを見たり音楽を聞いたりするのと逆で、仕事の感覚に近いです。色々な知識を総動員して作品の持つ意味を想像したり、そうやって想像したことを解説と照らし合わせてその差について考えたり、という感じです。

「美術展は高尚じゃないよ、だれでも自分の好きなように作品を見ればいいんだ」という考え方もアリだとは思いますが、色々知ってたほうが楽しめるものだと思います。そもそも入場料1500円ってちょっと高いし、好きなように見るんだったら1500円のモトがとれないので行きません。

巨匠の作品のよいところは、すごさが既に客観的に折り紙つきなので、それを見た時の「自分が抱いた感覚の価値」がある程度担保されるところにあります。なので僕はまだ評価されてないマイナーな作り手の美術展には全く行かず、そういう意味でアート好きというよりミーハーです。将来成功して大金持ちになってもパトロンとして先端のアーティストと交流して経済的にささえるようなことはしないでしょう。

ですが今回のこのアメリカンポップアート展は、主にパワーズ夫妻というパトロンが所蔵する作品群が披露されています。「ポップ」な作品は「個的なモチーフから切り離されて」制作されるところに強い意味があるのだと思いますが、本展はパワーズ夫妻へのプライベートな友情が感じられるような作品もちらほら展示されていて、パトロンと画家との交流はさぞかし楽しかったろうなと想像します。

そんなこともあってか、本展は入ってすぐ最初に展示されてるのがウォーホルによるキミコ・パワーズの肖像アートでした。「まずは所蔵者への敬意を」、というキュレータの心意気ですね。大々的なポップアート展をキュレートする役目を授かったら、キュレーション自体をポップな味にしたいと思うのかもしれないですね。

その「挨拶」から始まって、最初のほうはポップアートの成り立ちにフォーカスしたような作品群が並んでました。

そもそもポップであるとはどういうことか? 本エントリを読んで下さっている貴方はどう考えますか?音楽のポップスは、軽い、万人の好みにスケールする、そういう感じだと思います。理屈っぽい説明では、ポップはポピュラー(popular)から派生した言葉で、大衆的とかそういうことだよ、というのがよくあります。大衆的に通用するアートを作るには個的な経験や感情から離れる必要がある、だからちょっと「浮いた」感じとか「記号的な」感じになるのですよ、というわけです。僕もそういう説明を聞くと確かに、と納得です。

例えば最近流行った「半沢直樹」なんてすごいポップだと思います。リアリティというより芝居性が強くて、現代社会で大衆が抱える憤懣とかが巧く記号化されていると感じるからです。あれが「倍返しだ!」みたいなこと言わずもう少し個別具体的なケースバイケースの衝撃発言を繰りかえす火曜サスペンスドラマみたいな感じだったらポップじゃないですよね。

それで本展の話に戻りますと、「画家がポップな態度で制作するというのが具体的にどんなものか」というところに興味が向くのは当然なので、本展の最初のほうはそういう感じでフォーカスされているように思いました。(そうしておいて、後のほうの展示は制作過程から切り離されて作品そのものにフォーカスが当てられているので、本展は後になるほど記号的な作品が多くなる感じです。もちろん、それはポップアートの時代の流れの通りでもありますよね。)

で、具体的な制作過程ですが、そもそもポップアートが隆盛するまえのアートの主軸は「内的感覚や衝動の表現」みたいなところがあると思います。モネは人間の視覚というものをキャンバスに写し取ったのだし、ピカソは時間と空間の「経験全体」を写し取りましたし、モンドリアンはそうした絵画表現を抽象化していった代表的な画家ですがモンドリアンもモチーフは「内面を、外側へ」であり抽象の度合いが突き抜けているだけです。

それで展示作品を見ると、(作品発表当時の)現代人が生活の中で経験する様々なシーンを切り取ってキャンバスに収めたようなものがまず目につきます。形態や色彩が、なんとなく日常シーンの抽象化という感じがします。新聞の切り抜きや、写真を版画に写し取ってアレンジしたもの、活字体そのものをモチーフ化したもの、等々。なので上記のポップアート以前のモチーフと対比させて言えば「外側から内側に来るものの大衆的共通項を再現」しているのだ、というふうに定義づけたらよいのかもしれません。

一つ面白いと思ったのが、ジャスパー・ジョーンズという画家による、アメリカの星条旗をモチーフにした作品です。(これはGoogleで画像検索して出てくるやつを見ても全然本物と感じが違うのでぜひ本展で見るのがオススメ)。下地の色が星条旗の色合いとは反対の緑で、その上に星条旗の図柄をペンでさらさら塗りつぶすようにして描かれています。その塗りつぶしの筆致も、星条旗の横縞模様の一行ずつバリエーションがつけられていて、単なる図柄のコピーとは違った絵画性がはっきりと見て取れるようになっています。

このジャスパージョーンズの星条旗がなぜポップアートなのかを考えるのは面白いことです。解説書きを読んで僕なりに解釈すると、画家が追求しようとしたのは、上述した従来の「個的な体験に基づいたモチーフ」から物凄く離れた制作態度であり、星条旗は「誰でも知ってる」上に「それ自体が図柄」である事をもって十分モチーフに値する、ということのようです。つまり、それまでは「作品=モチーフ性+絵画性」だったのが、モチーフ性(=「何をモチーフとするかは画家のセンスだ」みたいな従来の絵画観)を画家の個的な体験から完全に解き放つことで、「作品=絵画性」となり、絵画性のみを追及せざるを得なくするというわけです。

まぁ、今風に言えば、イラストを描くにあたって「初音ミク」を選んだらもうモチーフで差をつけることは出来ないので「あとは実際の描き方の勝負」になる、みたいなイメージですかね。初音ミクを写実的な描写に落としてしまうのではなく、あくまでも中性的なキャラクター性を維持したうえで描いたイラストが豊富にありますが、そういう制作態度は確かに「ポップだなー」って思います。

で、そうすると星条旗なり初音ミクなりは、モチーフという呼び方をするよりも、ある種の文章表現でいうところの「引用」のようなものと言ったほうが正確になりそうですよね。なのでポップアートで定番に使われる文字フォントそのものや新聞や広告の断片等は、モチーフ的でなく引用的に作品に取り込まれてるのでしょう。

それでこの引用についてですが、もしそれが文章表現だったら引用の仕方にバリエーションを持たせようとしたら「引用する側の文章のコンテクスト」を色々と変えるという話になると思いますが、絵画の場合は引用を引き受ける側のコンテクストはもちろん、引用の仕方そのものが絵画性を帯びうるのだということも本展のキュレーションのテーマになっているようでした。

なので例えば数字フォントの0から9までを引用的に表現した作品群や、さらには「何も引用しないのに引用の形だけを描いちゃう」みたいなノリで、縦横ナナメの線の組み合わせや形態や筆致だけで何バリエーションも並んだ作品群などがありました。こういう抽象表現めいた絵画は、モンドリアンのような真の(?)抽象画と一見見分けづらいと思いますが、こうしたポップアートに関する知識を得ると、画家のやろうとしてる目的が全然違うってことがわかるようになって面白いです。

そういうわけで、ちょっと長くなったので続きはまた明日書きます。ポップって思ったより深いなって思えたので本展に行って良かったです。