数学と人生

今日は数学の話題を半ばこじつけ気味に織り交ぜた変なコラムを書いてみます。
(続編を残した記事がいくつかありますが、近日中に書く予定です。)

さて。

「学ぶ楽しさ」と「ネット世代の老後」

私は小さいころから数学や理科が大好きで、プロの学者にはなれなかったけれど今でも勉強を楽しんでいる。社会人になってからのほうが、数学も含めて色んなことを吸収しやすくなったとも思う。(そう感じている人って結構多いんじゃないだろうか。)

だから私は今とても幸せを感じていて、このままの状態でずっと色々学んでいけたらいいなって思うのだが、心配なのは老後のことだ。歳をとったらきっと目も悪くなるし頭の回転も遅くなるのだろう。そうなったとき、何かを楽しんで学び続けることは出来るんだろうか?

逆に、老後の心配はそのことだけで、経済的には全く心配がない。何かを学ぶことはとても経済的だ。ゴルフや旅行にはお金がかかるが、私が老齢になったころにはきっと「ネット上の学びのリソースは殆ど全て無料」になっていることだろう。快適な部屋と栄養のある食事とパソコンは十分確保できるだろう。だからこそ身体や意識の衰えが一番心配だ。それをコンピュータの側が補ってくれるようなインタフェースがあったらとても便利だろうな。

既に日本は高齢化社会だといわれているが、巷の老人たちは人生を楽しんでいるのだろうか。もしかすると、今の老人よりも、今「ニート」をやっている人たちの老後のほうが(経済的に最低限生きていけるならば)何倍も楽しい余生なんじゃないだろうか、と思わなくもない。この世代間のギャップは、ものすごいものがあると思うのだ。

今の老人たちの多くがパソコンやインターネットを使いこなすようになることはないだろう。でも、将来は違う。いまPCやネットをバンバン使っている世代がそのまま老人になるのだ。そうしたら、コンピュータのインタフェースを老人向けにするというテーマは、今とは全く別次元の重要性を帯びていることだろう。経済的にゆとりのある先進国に住む全ての老人の福利厚生に直接かかわる重大事項になっていることだろう。

「学びの時間」と「生産の時間」

学ぶことはとても楽しい。人生の幸せ度を高めてくれる。でもやっぱり老齢に至るまでは体力もあるのだから、何か他人の役に立つような生産的なことをするのがより大きい幸せを感じることができるのだろう。若いうちに「アウトプットする幸せ」を味わわなけれ損だよね、と。でも「アウトプット」には苦労が伴うし、他人の役に立つことのバロメータともいえる「お金を稼ぐこと」には、ある種の「割り切り」が必要なことも少なくない。

そういうわけで「学びの楽しさ」と「アウトプットの(苦労の末に感じる)幸せ」をどうバランスしたらよいかについて色々な人が色々なことを考えている。私もそのことについて考えてみてちょっと変なことを思いついたので恥ずかしながら書いてみる。

  • 今日が「自分が生まれてから第N日」だとする
  • そのNの数字によって、今日やることを決めたらどうか?例えば…
    • Nが偶数だったら、(Nが偶数で割り切れるだけに)「割り切って、生産的なことをする」
    • Nが素数だったら、純粋に(何かの役に立つかどうかは無視して)「学ぶために学ぶ」
    • それ以外の場合、テーマを決めて、学ぶなり生産的なことをする

というものだ。素数の日が多いと嬉しいのだが、素数ってどのくらいの割合なのだろうか?

素数定理

人生は有限なので、素数の割合はきっちり計算できる。例えば私は75歳まで生きるつもりで、日数換算では、約365日×75年=27375日である。1万までの素数は1229個、10万までの素数は9592個なので、人生で遭遇する「素数の日」は3000日くらいだろう。だいたい1割くらいだ。

ちなみに、もっともっと人生が長かったら、「素数の日」の割合はどうなるんだろう?これには既に数学的に答えがあるそうだ。「素数定理」というやつがそれで、

自然数Nについて、N以下の素数の割合は大体 \frac{1}{ln(N)} になる。

らしい。
\frac{1}{ln(N)}をグラフに描いてみると左図のように急激に減少する関数であることが見て取れる。ある自然数が大きい数であればあるほど、既に出現した何らかの素数の倍数になっている可能性が高いというのは直感的にも納得がいく。

この「素数の割合」が分かっているというのは結構すごいことだと思うのだが、数学者という人たちはそれだけでは飽き足らず、素数自然数の中でどのように分布しているかをもっと詳しく調べようとしているらしい。それが「リーマン予想」という数学上の未解決問題の中でも花形中の花形なのだそうだ。

数学は花形になればなるほど、応用がいまいちよく分からない分野な気がする。「数論」こそが数学の本丸、花形だという話をよく見かけるのだが、数論に取りつかれたインドの(アマチュア)数学者ラマヌジャンが、殆ど「世捨て人」のような人生を送ったことが特に象徴的だと思う。

そんなわけで

明日からはまたちゃんと記事(これまでの記事がちゃんとしているかどうかはおいといて)を書きます。