引きこもりとスーパーコンピュータ

(数理工芸日記の記念すべき最初の記事は、コラムです)

「ひきこもり」は何かと話題になるテーマだが、それを明確に定義することは可能だろうか?
もし、定義できるとしたら、それはどんな定義だろうか?本コラムはそれについて考えてみる。

とかく「よくないことと」と断定されがちな「ひきこもり」であるが、その「よくないこと」とする論拠でよくあるのは、「家の中に長く一人でいることは、人間に本来備わっている社会性をないがしろにする行為だ」といったものである。この論拠には「人間らしく(他の動植物や機械にはできず、人間にしかできないことをして)生きていることが価値のあることである」という前提が隠れている。これを出発点として考えを進めよう。

さて、では「人間らしさ」を左右する社会性はどんなものだろうか。社会性の一要素として、言葉をしゃべったり他者と触れ合ったりすることを挙げるなら、それは動物でもやっていることであるから、それだけでは定義上「人間らしく生きている」とは言えないことになる。「動物でさえやっていることを、やっていないなら動物以下だ」と考えることもできるが、「ペットを飼っていて、親兄弟としかコミュニケーションしない人」は言葉をしゃべって他者と触れ合うのにもかかわらず「引きこもり」に当てはまりそうだ。だから「コミュニケーションの相手がどれだけ特定されているか」は一つの基準になりえそうだ。

では、「コミュニケーションの相手が特定されていないほど社会性がある=引きこもりと対極にある」のかといえば、それも違いそうだ。知らない人と表面上の話をすることはできるが、付き合いを深くしていくのが苦手な「引きこもり性分」な人は少なくないだろう。(当たり前の話だが)社会性には「広さ」と「深さ」の両面があるのだ。では、「引きこもり」の状態で、「広さ」と「深さ」を追求することは不可能なのだろうか。ここ十年ほどについて考えるなら、インターネットの普及のおかげで、不可能では無くなってきている。その「深さ」が双方向のコミュニケーションを前提とするなら、インターネットを「閲覧」しているだけでは「引きこもり」のレッテルを免れないだろう。では、ネットを通して積極的に他者と双方向のやり取りをするならば、十分社会性を発揮していることになるのだろうか?

例えば、2ちゃんねるを年中やっているA君は、その「2ちゃんねらーでないと知らないようなコンテキスト」(=「深さ」がある)の上で、不特定多数の人(=「広さ」がある)と、双方向にコミュニケーションをしているが、A君は誰もが認める「引きこもり」だ、という話にはまったく違和感がない。この例から、「不特定多数」の人としかコミュニケーションしないのは「社会性の欠如」とみなされる要因になることが分かる。つまり、もしこれが2ちゃんねるではなく、Facebookだったら、逆にA君は非常に社会的だとみなせるのではないだろうか。お互いに相手が特定できる状況で双方向にコミュニケーションすることこそが社会性の発揮なのだろう。

これまでの考えをまとめると、社会性とは、血縁や文化、所属する組織、利害を共にする人、といった人と人を強制的に結び付けてしまうものを超えたところで、「お互いが特定できる状況」で「双方向」に「深く」コミュニケーションする相手を「広く」もつことだといえそうだ。

こうして定義した「社会性」を吟味すると、それは「性能の良いスーパーコンピュータ」に必要な条件と驚くほど似ていると私は感じる。スパコンは、「インターコネクト(=お互いが特定できる状況)」、「双方向性」、「コンテキストの共有(=深く)」、「スケーラビリティ(広く)」がその性能を決めるといっても過言ではないからだ。また逆に、「引きこもり」は「シングルプロセッサの性能を追求する状況」に似ている。「引きこもり」本人の内面で大きな世界を展開していくことと、シングルコアのクロックを追求していくことに、私は類似性を感じる。

「人間らしさ」の様々な側面を捨象して社会性についての構造的な側面だけを考えると、そういう類似性が垣間見えてきて、とても面白い。