身体を軽視しすぎてる現代人

今日もオフィスで目覚めましたー!起き抜けにポワワワンとブログネタ浮かんだんで書きますね。

  • 「俺、努力しようと思ってるんだけど出来ないんだよ。。」
  • 「彼女を信じてるし確かに気持ちは僕に向いてるのにしょっちゅう浮気するのナゼ??」
  • 「あいつ貸した金を返すの遅すぎ。でもいつも本当に返す気はあるのは伝わるんだよな。。」
  • 「おぼかた先生は真剣に研究してそうだし、多少の詰めの甘さは大目にみていいんじゃね?」

みたいな話に共通する思想についてです。面白そうでしょ。え、思想とか哲学とか興味ない…?だったら速攻ブラウザ閉じろくぁwせdrftgyふじこlp*1

ココロとカラダは一体である。じゃあどっちが強いのか?

(冒頭の話とは全然関係なさそうな問いでアレレ感があるかもしれないけど、まぁ黙って読めば面白くなってくるぜよ。)

答えは、カラダである。人間、ココロよりもカラダのほうが先に出来上がって生まれてくるのである。自分が赤ん坊だったころのことを覚えてますか?覚えてないでしょう。でもおしっこを我慢したりウンチを我慢したり(排泄のコントロールのことね)、液体を飲んだり固形物を噛んだりするという運動については大人になったいまもきちんとカラダに根付いている。

ふだんの生活で我々は自分の心がいつもすぐそばにあるので、意志の力でその心をコントロールすることが身体をコントロールすることに直結するような気がしている。もちろん確かにそれはそうなのだ。子供のころから身体につけてきた基本的な動作というのは、意志の力で心をコントロールすれば連動して身体まで動きが及んでくれる。実にスムーズに。

しかしそのスムーズさを支えているのは、身体のほうなのだ。身体にしみついてる動きだからこそ、ココロで思ったことがカラダに直結してくれるのだ。だからもしカラダのほうに準備がない何かをやろうとしたら、ココロだけでどうにかすることは難しい。

本当はカラダが先でココロが後

ヨガという精神・身体の一体訓練法がある。最近は美容エクササイズとしての評価が定着してる感もあるけどそれは2000年代に耷出版というマイナー雑誌が出したヨガ雑誌が著名人の間で話題になってそこから一気に広がっただけの最近できた文化で、もともとは90年代とかはオウム真理教とかに象徴されるような精神と肉体の訓練思想だ。

僕もヨガの専門的なことはあんまり知らないのだけど、カラダが先でココロが後、という思想にもとづいて両者の向上を図る体系的訓練法だっていう認識を僕は持っている。そして恐らく、その認識は正しい。

例えばヨガがストレス解消とかに効果があるという点はロジカルに納得できる。つまり、普段我々は現代社会において身体的な動作をある制限されたカタチでしか発揮できないような生活を送っている。PCに向かってカタカタやって電車に揺られてスーツ着て人と話す、そういう動作だけでは人間に本来備わっている身体性のすべてをカバーできないのだ。そして人間の脳や精神系統というのは、原始時代に狩りや採集をして暮らしていたころに最適化されたまま、今でもそんなに変わっておらず、ゆえに身体動作の制限は精神の制限につながっているためそのズレがストレスとして溜まっていったりする。なのでそのズレの解消は、ヨガのような身体の可能性を系統的に発揮するプロセスによって十分になしえるだろうというわけだ。*2

カラダが支配する範囲はかなり広い

借りた金をなかなか返さないというのは、一見ココロの問題に思える。けれども、それは違うのだ。心で思ったことが行動として実現しないケースというのは、ほとんどはカラダの問題なのだ。

一見、「お金」というのは人間社会が生み出したもので、動物社会とくらべると幾分抽象的なコンセプトであり、人間の精神のたまものだというイメージがある。それは部分的にはそうなのだけれども、お金というコンセプトに占める身体性は実はかなり大きい。

抽象的な概念というのは、その基礎にある具体性が身体と一体となって初めてリアリティを持つ。お金というのはけっこう抽象的なわりにリアリティの強いコンセプトだということは納得されるだろう。だからつまりお金に占める身体性というのはかなりのものがあるのだ。

だから「お金を返さない」という行動の傾向というかまぁ習慣は、その習慣を持つ人にとってお金がもたらしうる「効用」の具体性がどれだけ身体的かと連なる程度に、カラダの支配を受けている。もしお金に対する認識がすごくバーチャルな人、霞を食って生きているような仙人みたいな人がいて、その人が「借りた金を返さない」ということがあって、しかも何かお金に別のシンボリックな精神性を見出してそれに引きずられているとかでもない、そういう条件があって初めて「単純にズボラな精神の持ち主」だという結論づけが妥当性を帯びると思う。

ここで挙げた「お金」はそういう風に身体性がとても大きい部類のものなんだけど、人間が精神的に操っていると思われるさまざまな概念はすべて、程度の多少はあれど身体性を帯びている。だからいろんなココロの問題とされがちなもの、意志や意識の問題と思われがちなものの多くは、そういうカラダの認識をもう少し考慮に入れることでより有効な対処対策が見えてくることが増えるんじゃないかなって思う。

カラダを意識することで見えてくるもの

冒頭で挙げた「俺、努力しようと思ってるんだけど出来ないんだよ。。」というのであれば、その努力したいテーマやなりたい理想像に含まれるコンセプトにいったん分解して、そこに含まれる身体性を考えてみるといいかもしれない。そうすれば朝早く起きて勉強するという目標を立てたのに全然できないということがあるならば、めちゃくちゃおいしいモーニングの喫茶店へいくとか、かわいい女の子にバイト料を払ってモーニングコールと進捗報告を習慣づけるとか、身体性にもとづく対策がうまくいくかもしれない。

「彼女を信じてるし確かに気持ちは僕に向いてるのにしょっちゅう浮気するのナゼ??」ということであれば、セックスをもっと少しちゃんとやるとか、逆に浮気を許容しない強い態度を見せるとか、そういうことかもしれないし、女性視点で彼氏が浮気性だったら自分をもっとエロく見せるとか手料理の腕を磨いて胃袋をガッチリつかむとかが有効な対策として浮かび上がるかもしれない。

「おぼかた先生は真剣に研究してそうだし、多少の詰めの甘さは大目にみていいんじゃね?」という話であれば、実験プロセスや評価制度や研究者間の御恩と奉公みたいな関係性の見直しとかいう部分に本質的な対策が隠れているのかもしれない。

というわけで

まぁそんなところです。

*1:睡眠不足の朝は大体いつもこんな感じです。あ、こんな僕を手伝ってくれる優秀な学生アルバイト募集してまっす。

*2:僕は20代のころはこういうテーマを初めとするいろんな思想のことばっかり考えていたのですぜよ。