「美」について

生きてると何事も選択の連続なわけですが、みんなどうやって選択の意思決定をしているのでしょう。

例えば今日の夕食は何にしようと考えた時、自分の好きなものだけを考えればステーキ、寿司、etcと経済的なことを気にせず候補が出てくるわけですが、実際にはお金や自分の健康など諸々を考慮して総合的に決めますよね。仮に誕生日だとしたら、じゃあ「今日は記念にステーキだ」とかいうのもりっぱな「総合的な意思決定」です。

もちろん普段はそんなに総合的などという大げさな話ではなく、無意識にパッと決めちゃうと思いますが、それは過去に「似た事例(=夕飯は毎日食べますよね)」繰り返ししてきたゆえに日々の判断はちょっと(例えば、昨日の状況との差分)で済んでいるわけで、総合判断をしてないわけじゃありません。

じゃあそういう総合判断をするときの指針となるバランス感覚やプライオリティ付けをもたらしているのは何なのでしょう?それは個人の「美的感覚」じゃないかと思います。例えば、自分の味覚の快感を最優先する、すなわち「美味いもの食って死んでもそれは本望だ」みたいな態度もりっぱな美的感覚の反映といえます。

よく、人は「幸せ」になるように行動を選択するといいます。例えば貧乏な人は不幸なように見えますが「清貧」を良しとする考えの持ち主にとってはそれが「幸せ」の基準だから合理的なのだ、という話がよくありますよね。では「美的感覚」と「幸せ」はどう関係するのでしょう?

それについて僕はこう思います。幸せというのは大域的な指向性であり、美は局所的な指向性である、と。つまり、人生全体の大きな方向性としては幸せを希求するのだけれども、それを実現するために短期的には不幸の方角へ歩まなければならないときもあるので、その指針となるのが「美」ではないか、というわけです。

これはちょっと面白い現象をも含めて考えています。例えば、戦時中に「祖国のために命をなげうつ」という思想で死んでいった我々日本人の尊い先輩たちがいたわけですが、その先輩たちの生き方を指して「死を迎えたのだから大域的に見て幸せを追及出来てないじゃないか」と思われるかもしれません。これには上で述べた僕の「幸せと美の関係」でもって、こう反論します。「美」は大域的な「幸せ」への道程を切断しうるのだ、と。

そして、「幸せ像」というのは多分に社会的な要素を多く含んでいて、メディアなどに影響されて自分の幸せを無意識に定義してたりすることはあると思いますが、「美的感覚」はかなり主観的なものじゃないかと思います。割とみんな目指している幸せ像にそう大きな違いはないはずなのに、人それぞれ生き方が違ってくるのはそのためじゃないかと思います。ある人を形容する際に「美しい生き方だ」といったらそれはプロセスを意味してるように感じたり、「幸せな生き方だ」といったらそれは何か実現済みの状態のことを指しているように感じたりすることも、僕がこう主張する根拠として納得いただけるんじゃないかと思います。

じゃあ、美的感覚は何で決まるのかですが、美術や文学や音楽はとてもいいリソースになると思います。それらを鑑賞することによって、世界の見方が豊かになりひいては美的感覚をもたらすわけです。鑑賞が個人的なものであるゆえに、美とは主観的なものになります。

しかしここでまた、美術「作品」は客観的に評価されうるものだということも、この世の面白い事実だと思います。良い美術作品は人々の間で、また時代を超えて、めいめいの「主観的な美的感覚」に影響する、そのため作品そのものは「客観的」に良いものだと評価され、歴史を伝わって遺されていくというわけです。男性にとって「美女」は、まさに主観と客観の交差するところにありますよね。(あ、美しい女性を「作品」と並べて語るという感覚は褒められるべきではないかもしれませんが、罪のないよくあることだと思います。)

ここまで読んでいただいて、善悪と美の関係についても何らかいえそうだと思われるかもしれません。そう、善悪は「行動の結果」を評価する基準ということになるのです。その評価基準を予め個人の内面に持っていて、行動選択の判断材料とすることは出来ますが、その際もその基準のもとでの善悪もろもろを考慮して何かを選択する際に使われるのは「美的感覚」でしょう。悪にも美があり得ると思いませんか?

美について、僕はそんな風に考えています。

なんとなく、仕事が終わらずイライラして雨も降ってきてオフィスから帰宅できず、こんな話を書きたくなったのでした。

ではまた明日。